私が建築について考えていること

家は一つの世界であり、住まい手はその世界の中にいる。住まい手の中にも世界がある。あるとき住まい手の世界が裏返り、家の世界と重なりはじめる。重なりが進行すると二つの世界は分かち難いものになる。どちらか片方の世界ではなくなっている。

家は深く根を下ろし経験の一部に組み込まれている。住まい手は無意識に家と経験が同化することを許している。時間経過を示すカーペットについた脚跡や壁紙の日焼け、様々な土地からやってきた時好や嗜好が投影された物々、現実的で実用的な品々。住まい手のいる生きた家には現実も虚構も、理性も感性も、あらゆる時間軸も、全てが存在している。(視覚的以上に)多重なもの/複雑なもの/時間的なものを含み、いつまでも興趣が尽きない。そうした性質を持つのが『生きた空間』である。

建築家が『生きた空間』というテーマに真っ向から触れることは少ない。このテーマは新しい、というよりもむしろ古臭く感じるかもしれない。かつて美術評論家である多木浩二の著書「生きられた家 経験と象徴(初版は1976年)」で取り上げられてから大きな話題となった。それでも扱われることが少ないのは、〈 建築家が生きた空間を設計する 〉という一文に、決定的な語義矛盾があるからだ。『生きた空間』は住まい手の存在があってはじめて形成されるものであり、その状態を建築家が予測することは不可能である。演繹的に見通しがつくものではないし、論理的必然性も存在しない。さらに付け加えると、建築家が自身の理想で塗りつぶしたような、作品性が高い計画ほど『生きた空間』からは遠ざかってしまう。そんな理由で数十年間、建築家がこのテーマを気にしつつも遠巻きに眺めている状況に頷けてしまうのだが、それでも『生きた空間』を主題として扱いたいという気持ちが湧いてくるのは建築界への反骨心からかもしれない。

人が家に住みはじめ、人と家が相互に干渉し、両者は幾らかの時間をもって新たな秩序へと辿り着く。住まい手と家が生み出した秩序は空間の多重性に一組の関係を与え『生きた』ものにする。初期の家を『第一の空間』とするならば、後発の空間を『第二の空間』とでも提起してみたい。『第一の空間』を『生きた空間』にすることは前述の理由で出来ずとも、『第二の空間』を『生きた空間』にできる可能は残されている。私は、この〈空間の移行〉に光明を見出している。

第一の空間は直接的に住まい手に影響を与え、おおよその方向性を規定することになる。しかしながら時間軸が不可逆的に存在する以上は、その瞬間と全く同じ状況に置かれることは二度とない。第一の空間は、例外なく、変化する運命にある。

家は影響を及ぼし、住まい手は独自に解釈して応答する。家具や花を置いたり、扉をペンキで塗ったりすることもあるだろう。住まい手により変容した家(あるいは住まい手の解釈が変容した家)は、再び住まい手に影響を及ぼす。両者が親密さを獲得したとき、物理的・観念的なフィードバックループの関係を持つ。ループは同じ場所を周るわけではなく、数式に落とし込める軌跡を描くわけでもなく、折れたり歪んだりして方向を変え、一周すると元とは異なる場所に至る。第一の空間から第二の空間への道筋は偶発的で不規則なものだ。

ループの度に空間は更新し、多重なもの/複雑なもの/時間的なもので満ちていく。更新前後の差異が微かなときもあれば大きなときもあり、第一の空間が忘れ去られる程に甚大なことさえもあり得る。変化を悲観する必要はない。それこそが住まい手と家にとっての然るべき姿であり『生きた空間』なのだ。建築家がすべきことは、第二の空間の存在を認識した上でフィードバックループの活性化に尽力することである。この思考の転換は〈 建築家が生きた空間を設計する 〉という大きな矛盾を乗り越える糸口になるはずだ。

空間には2つの側面※1 がある。
a.構造的側面(間取り・機能・構造など)
b.エネルギー的側面(情動・非合理・偶発性など)

建築家は主に a を設計するが、『生きた空間』は b で溢れている。
家が建てられた序盤においては a によって空間が規定されている。住まい手と家に友好な関係が生まれている場合は徐々に b の割合が増していくが、 a が完全であればあるほど抑圧する力が働いてしまい b の増加は起こりにくい。そのとき空間は建築家の想像の範疇に留まってしまい、空間が移行することはない。
反対に a が些々たるもので安泰さしか与えないときも、従来の住まい手の想像力が空間の限界を規定してしまうため、新たな秩序が生じる可能性は低い。仮に生じたとしても、それは類いまれなる住まい手の功績であって、家自体は寄与していない。家という初期入力により住まい手の内的世界は乱され、その不安定な状況下でこそ新たな空間が創発する可能性が高まる。
a は完全でも些細でもいけない。

建築家は a.構造的側面 でおおよその方向付けを行い、 b.エネルギー的側面 が沸き起こる可能性を家に託す他ない。住みやすい間取りや便利な機能、合理的な架構だけでは不十分だ。フィードバックループを活性化させるには、一度住まい手の内的世界が非平衡状態に置かれ、家は〈示唆〉的で〈多義〉的で〈開放〉的な必要がある。明快な意図だけでなく未知性を含み、読み解き切れない多声性を備え、内に籠らずに積極的に他者に開かれた寛容さを持つこと、それらは全て『生きた空間』へ繋げるためだ。

建築家や住まい手によって限界がつくられないよう、両者の枠を越えて、もっと深く大きな世界に辿り着けると信じている。

最後に:

〈家〉というあえて限定された用途について言及しているが、これはイメージを容易にするためである。〈家〉はテーマを最も直接的に表す用途ではあるが、他用途にも適用可能であると考えている。

結果的にこの文章は全体的なレベルについて書いた「鳥瞰図」の様相を呈しており、ほとんど具体的な部分には踏み込んでいない。現段階で具体的に書くと多くの事柄が抜け落ちてしまうことを直感的に理解しているためである。時間を掛け、どのように実現できるのか、機会がある限り実践と並行して取り組んでいきたい。

※1「生きられた家 経験と象徴 / 多木浩二」から2つの側面を引用、項目の中身に関しては独自の見解を加えている。